意思決定における脳のはたらき

最近の脳科学の進歩により 意思決定に際しての脳の役割が判明してきつつあるのでご紹介します。

脳の活動のほとんどは自動プログラムによって実行されていて,例えば歩行の順序を意識するのは足下が凍っている時などだけです。
むしろ意識しない方がスムーズに進行する場合が大半です。

同様に、昼食に何を食べようかを決めているのも脳の自動プログラムであると考えるのが現代脳科学の主流です。
つまりおなかのすき具合や、昨日の昼食のメニュー、連れが注文した食事、懐具合など様々な情報が脳内を駆け巡っていてその中の一番強い情報にしたがって自動的に決定されているわけです。
あるいは飛んでくるボールをどうよけるかは視覚や聴覚情報で自動的に決まり、
考える余裕がある場合は意識的によけたと感じるけれど、たいていは無意識のうちに体が反応した、ということになるわけです。

つまり意識は脳の自動プログラムを追認しているだけで、極論すると自分が決めたと錯覚しているにすぎないということになります。


しかしそれでは自分で意思決定をしていると思っている「私」の本態はなにかと言う疑問が出てきます。
大昔は心臓のあたりに「こころ」があって意思決定を行っていると考えられていましたし、
最近でも脳内の前頭前野という場所が意思を決定する司令塔だとする考え方もあります。
さすがに体の外に守護神のような霊が存在して私の意思決定をおこなっているという脳科学者はほとんどいないようですが。。。


結論から言うと、前頭前野は様々な情報が行き交う、いわば情報の集積所ではあるけれども司令塔ではないという見解が現代脳科学の主流となっています。
言い換えると、自分の意思も他の脳活動と同様、さまざまな脳内情報の多数決の結果にすぎないということになります。

将棋や囲碁に限らず、熟考した(と思っている)判断より第一印象でぱっとひらめいた判断の方が優れていることは多々ありますが、熟考という行為はかえって脳の自動プログラムに不要なバイアスを与えているのかもしれません。

ここから先は余談になりますが
電子や陽子などミクロの物質を扱う量子力学では、誰かが観察するまでは物質の状態は確定せずいろいろな状態が重なり合っていると考えるそうです。
つまりふだんはAの状態やBの状態が重なり合っている電子も、誰かが観察したとたん(つまり光子を当てると)AかBかに収束するわけです。
量子力学を受け入れられなかったアインシュタインが「私が見ていてもいなくても、月はそこに存在する」と言ってこの見解を否定したのは有名な話です。

同じく「観察によって状態が決定する」という解釈に否定的だったシュレディンガーは「ある猫を、ある割合で原子核崩壊がおきる原子と同じ箱に入れたとする。原子核崩壊が起きるとそれに連動して毒ガスが発生する装置も同じ箱に入れておくと、誰かが箱を開けて観察した時点で初めて毒ガスが発生したかどうかが確定するので、それ以前は毒ガスが発生して死んだ猫と、発生せず生きている猫が重なり合った状態で存在することになる」という有名な「シュレディンガーの猫」理論(通称シュレ猫パラドックス)を発表しています。
生きながら死んでいる猫が存在するなどと言う馬鹿なことはありえないから量子力学は間違っている、と彼は言いたかった訳ですが、その後の研究では間違っていたのはアインシュタインやシュレディンガーの解釈であることが明かとなりました。

ただし、いまだにこのシュレ猫パラドックスをうまく説明できる理論は、たったひとつしかないそうです。
その唯一の理論とは、箱を開けた瞬間猫が死んでいる世界と生きている世界に枝分かれするという、多世界解釈理論(パラレルワールド)です。
パラレルワールドというと荒唐無稽な理論のようですが、たしかにこの解釈をとればシュレ猫の矛盾は解消するのでこの立場をとる理論物理学者も少なからずいるようです。

さんざん思い悩んでAかBかの意思決定をしたつもりが実は錯覚に過ぎず、しかも結果がAになった世界とBになった世界がどちらも平行して存在するのであれば、深く思い悩むなんて愚の骨頂、ということなのかもしれません。